西暦 |
日付 |
主な出来事 |
1833 |
5/7 |
ドイツの港町、ハンブルクにてヨハン・ヤーコプ・ブラームス、ヨハナ・ヘンリカ・クリスティーナ・ブラームス(旧姓ニッセン)夫妻の長男(第二子)として生まれる。 |
1840 |
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オットー・フリードリヒ・ヴィリバルト・コッセルについてピアノを学び始め、前年からは学校にも通う。父親が居酒屋でダンス音楽や娯楽音楽を演奏する際に、ブラームスもついて行くようになる。 |
1843 |
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公開の席で初めてピアノを弾く。《神童》ブラームスは、アメリカへの演奏旅行を持ちかけられるが、師のコッセルが反対して旅行計画は頓挫する。ブラームスは著名なピアノ教師マルクセンに師事するようになる。 |
1848-49 |
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演奏会の舞台に初めて立ち、自作の『愛すべきワルツの主題に基づく幻想曲』を初演する。 |
1853 |
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エドゥアルト・レメーニとの演奏旅行へ出発。ブラームスはハノーファーでヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムと知り合い、ヴァイマルでフランツ・リストと知り合う。 |
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9/30 |
デュッセルドルフでロベルト・シューマン、クララ・シューマンと知り合う。 |
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10/8 |
ブラームスの楽譜を出版するように、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のヘルマン・ヘルテルに手紙を出している。 |
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10/28 |
シューマンはこの日付けで、自身が創刊した「音楽新報(Neue Zeitschurft fuer
Musik)」に論説『新しい道』を書き、ブラームスを音楽における新世代の巨匠として紹介する。 |
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11/16 |
『新しい道』のお礼の手紙をシューマンへ送る。 |
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11月下旬頃 |
シューマンに勧められて、自作の出版交渉を行うために、ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社へ向かった。 |
1854 |
2/27 |
シューマンに破滅的な危機が訪れ、橋の上からライン河に身を投じる。 |
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シューマンは、ライン投身後すぐにボン近郊のエンデニヒにある精神病院へ送られる。 |
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6/11 |
クララ、7番目の子供のフェリックス出産。ブラームスが名付け親になる。 |
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クララに寄せるブラームスの好意が、恋の情熱に高まる。 |
1855 |
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クララとライン河に沿って旅行。 |
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11/14 |
ダンツィヒ(現在はポーランドの都市グダニスク)への演奏旅行。この演奏旅行で、ブラームスは、ベートーヴェンのファンタジー作品77と、ハイドンのヴァイオリン・ソナタト長調(ヴァイオリン:ヨアヒム)と、シューベルトのマーチ、自作の『サラバンドとガヴォット』を演奏。 |
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デトモルト侯爵の王女、フリーデリケと知り合い、彼女にピアノを教える。 |
1856 |
7/4 |
ブラームス、アントワープでロンドン演奏旅行帰りのクララを迎える。 |
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7/6 |
ブラームスとクララ、デュッセルドルフに到着。ブラームスはそのままハノーファーに赴く。 |
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7/29 |
ロベルト・シューマン死去。ブラームスはクララから離れ、デュッセルドルフを去る。 |
1857 |
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デトモルトに赴く。同地で合唱団の式を始めて経験する。 |
1858 |
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ゲッティンゲンで、アガーテ・フォン・ジーボルトと知り合う。彼女とは婚約するまでに話が進むが、結局、束縛されることを嫌ったブラームスは、婚約を解消する。 |
1859 |
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秋を再びデトモルトですごく。二曲のセレナード『第1番ニ長調作品11』と『第2番イ長調作品16』が書かれる。長い時間を掛けて完成された『ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15』は、ライプツィヒにおける上演が失敗に終わる。ハンブルクで女声合唱団を組織するが、この合唱団からは新しい合唱曲(『ドイツ民謡』『マリアの歌』『埋葬の歌』
)を作曲する刺激を与えられる。 |
1860 |
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リストを中心とする《新ドイツ楽派》に対する宣言文に署名。 |
1861 |
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ハンブルク郊外に住まいを移す。『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ作品24』を作曲。 |
1862 |
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ウィーンへの初旅行。彼が望んでいたハンブルク・フィルハーモニー・コンサートの指揮者の地位には、歌手のユーリウス・シュトックハウゼンが就く。 |
1863 |
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ブランケネーゼでカンタータ『リナルド作品50』を作曲。ウィーン・ジングアカデミーの指揮者に任命され、これを受諾する。 |
1864 |
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ウィーン・ジングアカデミーの指揮者を辞任。 |
1865 |
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母クリスティーナが死去。『ドイツ・レクイエム作品45』の完成に努める。 |
1866 |
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父が再婚。ブラームスは継母との良好な関係を保つことに心を砕き、後年、継母に対して感動的なまでの心遣いを示す。 |
1868 |
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ブレーメンにおいて『ドイツ・レクイエム』初演。『ハンガリー舞曲集』出版。 |
1869 |
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既に1861年に着手していた『マゲローネのロマンス』が完成。 |
1871 |
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普仏戦争におけるドイツの勝利に刺激されて『勝利の歌作品55』を作曲。この曲は直ちに(4月にブレーメンで、6月にカールスルーエで)上演される。 |
1872 |
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ウィーン楽友協会の芸術監督に就任。カールスガッセ4番地の住宅に移る。父ヤーコプが死去。 |
1873 |
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トゥッツィングに夏期滞在中、『ハイドンの主題による変奏曲作品56』を完成。 |
1874 |
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チューリヒ近郊のリュシュリコンで夏を過ごす。ライプツィヒに於いてハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクとエリザーベト・フォン・ヘルツォーゲンベルクとの友情が芽生える。 |
1875 |
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ウィーン楽友協会の芸術監督を辞任。 |
1876 |
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『交響曲第1番ハ短調作品68』が完成し、11月4日にカールスルーエでオットー・デッソフの指揮によって初演される。デュッセルドルフ音楽協会の監督就任の件で同市の当局と交渉。 |
1877 |
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初めてペルチャハで夏を過ごす。同地で着手された『交響曲第2番ニ長調作品73』は12月30日にウィーンで初演される。 |
1878 |
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ペルチャハで二度目の夏を過ごし、『ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品77』を作曲。ビルロートと共に、初のイタリア旅行を行う。 |
1879 |
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ブレスラウ大学から名誉博士号を授けられる。ペルチャハにおける三度目の、しかも最後の夏を過ごす。ヨアヒムとジーベンビュルゲンを演奏旅行。 |
1880 |
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バート・イシュルで夏を過ごす。『悲劇的序曲作品80』『大学祝典序曲作品81』を作曲。ブラームスは、「一方は涙の音楽、他方は笑いの音楽」と語っている。 |
1881 |
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ウィーン郊外のプレスバウムで『ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品83』を完成。ハンス・フォン・ビューローの指揮するマイニンゲンのオーケストラによって、その初演が行われる(独奏は作曲者自身)。 |
1883 |
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ヴィースバーデンで夏を過ごす。『交響曲第3番ヘ長調作品90』が完成し、12月にウィーンでハンス・リヒターの指揮によって初演される。 |
1884 |
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マイニンゲン侯爵の別荘を訪れる。夏はシュタイヤーマルクのミュルツツーシュラークで過ごす。『交響曲第4番ホ短調作品98』に着手。 |
1885 |
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二度目の夏を過ごしたミュルツツーシュラークで『交響曲第4番ホ短調作品98』を完成し、その初演が10月25日にマイニンゲンで行われる。 |
1886 |
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ウィーンの音楽家協会の名誉会長に就任。スイスのトゥーン湖畔で夏を過ごし、1887年と翌8年の二回の夏も同地に滞在して、その間に『チェロ・ソナタ第2番ヘ長調作品99』『ヴァイオリン・ソナタ第2番作品100』『ヴァイオリン・ソナタ第3番作品108』『ヴァイオリンとチェロのたmの二重協奏曲作品102』を作曲する。 |
1889 |
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ハンブルクの名誉市民になる。夏はバート・イシュルで過ごす。同地において翌年に『弦楽五重奏曲第2番ト短調作品111』を完成し、さらに1891年には『クラリネット三重奏曲イ短調作品114』『クラリネット五重奏曲ロ短調作品115』 |
1893 |
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最後のイタリア旅行。最後のバート・イシュル滞在。 |
1895 |
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ブラームス音楽祭が、マイニンゲンやその他の都市で開催される。 |
1896 |
5/20 |
クララ・シューマン死去。『4つの厳粛な歌作品121』を完成。 |
1897 |
4/3 |
ブラームス死去。ウィーンの中央墓地に埋葬される。 |